知の摩耗

(2025.10.19)
10月6日から13日にかけて、ノーベル賞の発表が連続しておこなわれました。生理学・医学賞に坂口志文氏(大阪大学)、化学賞に北川進氏(京都大学)の2名が受賞されたことは、日本の科学界に大きな喜びをもたらしました。
●大風呂敷
かつて第2期科学技術基本計画(2001年)の中に、「知の創造と活用により世界に貢献できる国」をめざして、「50年間にノーベル賞受賞者30人程度」出すことを目標にしました[1]。ずいぶん大風呂敷を拡げたと言われましたが、すでに21世紀に入ってから25年間に21人を数えていますので、目標の実現は現実味が増しました。
反面、もうノーベル賞はとれなくなると予想した記事がすでに2010年頃に出ています[2]。それは少々気の早い心配だったようで、2010年以降も順調に受賞者が増えてきました。
今後はどうでしょうか。
記事の予想通りになってしまうか、どうか。
●基礎研究の現状
その基礎研究について、政策の責任を持つ文部科学省が審議会を開催しています。
10月9日に文部科学省から「基礎研究振興部会(第19回) 議事録」が公開されました[3]。この第19回は9月5日に開催されたものですので、約1ヶ月前の記録ということになります。
この回の審議会は基礎研究に関して異なる角度からの資料が出されていて、たいへん興味深いものです。それぞれ日本の置かれた状況を知るには格好の資料類です。
次の3つの議題がありました。

●ムーンショット(月の方角を正しくとらえているか)
最初の議題はムーンショット事業の一部テーマの見直しです。
ムーンショット事業は米国の月面着陸プロジェクトになぞらえて、実現困難だが実現すれば大きなインパクトが期待される研究テーマに挑戦するもので、2020年から本格的に開始されました。初期には1,000億円の基金を作り、研究費としました。
ムーンショット研究は現実の社会で利用されることを想定した研究で、未知の原理を追求するタイプのものではありません。それでも挑戦的でリスクの高いものであることは変わりません。
この審議会での議論は「自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現」という目標の一部を、介護などより切迫した現場向けに設定しなおすというものでした。

●英国の大学(手本になるか)
Brexit以降、英国の大学も研究費の調達には苦労しています。日本よりも予算が減っている側面もあるとのことです。
それを補っているのが外国の学生です。”お客様は外国人”という状況ですが、そこに外国人制限の枠が課せれると、とたんに大学の経営が悪化するということが問題となっています。
英国の制度は日本に似た部分が多い(言いかえると日本が英国の制度をまねた)のですが、それはそれなりにいろいろな問題を内包していることがわかります。

●創発的研究支援(若手研究者を助けられるか)
2021年度からスタートした「創発的研究支援事業」は、
・挑戦的・融合的な研究構想に、
・リスクを恐れず挑戦し続ける独立前後の研究者を対象に、
・最長10年間の安定した研究資金と、研究に専念できる環境を一体的に提供
するものです。
2019年度の補正予算500億円で基金を作り、その後も基金を上積みしています。1年に250名前後の研究者を採択しており、来年度(2026年度)は第6期生の研究がスタートします。
科学研究の資金源として「科学研究費助成」(いわゆる科研費)がよく知られています。しかしその科研費もすべての研究者に行き渡るわけではなく、厳しい獲得競争がおこなわれています。
この創発的研究支援事業はそのような競争からこぼれ落ちてしまいそうな将来性のある研究者を積極的にすくい上げるものです。
まず全国の地方の若手研究者や女性研究者の配分を増やしています。さらに海外の研究者も応募可能としています。
5年が経過して、支援を受けた研究者が昇進したり、任期のない定年制ポストに就いたり、といった効果が現れているようです。なにより資金集めの時間を減らして、研究に従事する時間が増えた効果が大きいようです。
●ノーベル賞は単なる結果
ノーベル賞受賞者の多くは、若いうちに根本原理を見つけ、長い時間をかけて基礎から実用に至る努力をしました。同じ方向を向く仲間を作って、研究のすそ野を拡げる努力もしました。
その重要な原点として、最も脂の乗った若い年代に研究に専念できる時間を与えることが政策としてできることだと思います。そしてせいぜい、つまらぬ雑事によって研究者の貴重な時間を妨げないように配慮することです。
ムーンショットにせよ、英国風の制度にせよ、創発的研究支援にせよ、そういう負担を増やさぬような制度になってほしいものです。
ChatGPTにこのような状況を示す比喩を尋ねてみると、「本来、知を生み出すための環境が、知を摩耗させる場となっている。」と返ってきました。■
[1] 第2期科学技術基本計画 https://www8.cao.go.jp/cstp/kihonkeikaku/kihon.html
[2] 日本経済新聞「ノーベル賞、日本人の"大量受賞"時代に突入か」(2010年10月12日) https://www.nikkei.com/article/DGXNASGG0801Z_Y0A001C1I00000/
[3] 文部科学省 基礎研究振興部会(第19回)議事録 https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu27/siryo/1418092_00024.htm