介護離職とEBPM
(2024.11.03)
いつもは政策に関するさまざまな公表をもとに文章を書いてきましたが、今回は趣向を変えて、一つのレポートに注目してみました。
取り上げたレポートは労働政策研究・研修機構(JILPT)の「介護離職問題とEBPM」です(※1)。
●JILPTとは
労働政策研究・研修機構(JILPT)は厚生労働省所管の独立行政法人で、内外の労働に関する事情及び労働政策についての総合的な調査及び研究をおこなっています。厚生労働省の政策立案と推進を支援する役割を持っています。
●なぜこのレポートに注目したか
執筆者の池田心豪氏は、JILPTの中で「仕事と家庭の両立」を研究テーマにされている方です。特に「介護離職」の問題に15年以上にわたって取り組んでこられています(※2)。
今回は氏が「介護離職」の政策に関わる中で、”エビデンスにもとづく政策形成”(EBPM)との関係を整理して述べられている点に注目しました。一つの政策課題について、その長期にわたる変遷をEBPMの視点から書かれている点が新鮮でした。
EBPMについてはここでも何回か触れてきましたが、話題がどうしても抽象的になりがちで、具体的な政策とどのように結びついているかを説明することが難しいと感じていました。
氏のレポートでは、長年の研究を振り返りながら、そのような政策とEBPMの関係をわかりやすく解説されています。
1992年4月1日 | 「育児休業法」施行 |
1995年4月1日 | 「育児・介護休業法」(※3)へ改正 |
1999年4月1日 | 介護休業制度の義務付け施行 |
2005年4月1日 | 介護休業の分割取得を一部可能とする改正 |
2010年6月30日 | 介護休暇の制度化の改正 |
2017年1月1日 | 介護休業の分割取得を柔軟化する改正 |
●「育児・介護休業法」
1992年に「育児休業法」がまず施行されました。
この背景には、女性の職場進出、核家族化の進行等による家庭機能の変化、さらには少子化に伴う労働力不足の懸念等がありました(※4)。すでに育児休業については、その効果検証に関する論文は多数出ていましたので、厚労省はその知見を踏まえて育休取得促進に取り組んでいました。
一方、高齢化の進行に伴い、年老いた親の面倒をどうするか、離職することなく親などの介護をしたいとのニーズも出てきました。これらのことを受け、育児休業法に介護休業制度を盛り込み、1995年に育児・介護休業法になりました。これまでの育休の知見もありましたから、介護休業についても同じようなアプローチをおこなったわけです。
●使われない「介護休業」
池田氏のふりかえりでは、2005年頃になっても厚労省側では介護休業の利用実態はきちんと把握されていなかったようです。
厚労省の当初のもくろみでは、家族が要介護状態になった直後(介護の始期という)に3ヶ月程度の休業が必要となるという想定をして、それを企業に義務づけました。
しかしJILPTが2005年に実施した全国規模の調査(※5)をおこなっても、実際の介護休業取得者のサンプルがほとんど得られなかったというのが実態でした(たとえば6.6%)。
逆に介護休業を取得しないで、仕事を継続している労働者も少なからず存在していますから、介護休業という制度自体は存在価値があるのか、という根源的な問いに行き当たってしまいます。
2005年のJILPT調査では、たしかに介護の始期に休む労働者は少なくないが、介護休業ではなく、年次有給休暇のような別の手段を使っていることがわかりました。
●対象に対する想像力
1995年に介護休業を法制化した際に、厚労省側では”介護休業を取得する労働者”に対する想像力が不足していました。
介護休業に対して、育児休業と同じモデルをあてはめる前に、十分な「実態把握」が必要だったと言えます。
2005年のJILPT調査は、実はこの実態把握に相当するものです。
●「改善」はしたが
厚労省はこの調査結果をもとに、今度は介護休業とは別に「介護休暇制度」(1日単位で年5日取得できる)を2010年の育児・介護休業法の改正で盛り込みました。
その意味では、厚労省は「実態把握」(2005年調査)というエビデンスにもとづいて、「政策立案」(2010年改正)をおこなったという時系列の関係がみられます。
●「検証」より「発見」が優先
しかし本来ならばこの調査は育児・介護休業法(1995年)の「効果検証」をおこなうはずのものでした。
このあたりの関係を下図に示します。
「政策立案」の前にきちんと「実態把握」をおこない、政策が実施された後は「効果検証」をおこない、前段階にフィードバックするという関係です。いわゆるPDCAサイクルと同じことであると理解できます。
問題はこれらのサイクルが理想的には進まないという点にあります。
1995年改正の「効果検証」のための2005年調査から、「短期間の介護休業」への要望が多いという新たな課題が見出されました。
厚労省としてはさっそくこれらの新たな課題を取り上げて、「介護休業の分割取得」の推進や「介護休暇」の新設など、新たな政策を次々に実施していきました。
しかしこのような新しいものにすぐ政策の関心が移っていくため、従来の施策のふりかえりに十分な時間をかけないで終わってしまうことになります。
●政策立案の宿命
人や社会の動きを正確に把握して、モデル化することは至難といえます。政策によって人や社会に働きかけをおこなうと、その影響が(意図しない)領域に現れることがあります。その新たに出現した影響を分析し、従来の政策に反映させると、また別の領域に新たな影響が現れます。
さらにやっかいなのは、政策を実施してから長い期間をおいてからその影響が出現することです。
●エビデンスの難しさ
もっともわかりやすいエビデンスは、XによってYが生じるという因果関係を示すものです。これがはっきり主張できるのであれば、政策によって期待される効果も明確に説明することが可能となります。
しかしほとんどの社会現象については、そのような因果関係を主張できることはできません。比較的小さな問題についてXならばYといえるエビデンスを地道に積み重ねることしかできないでしょう。
池田氏も「介護離職」の問題を十数年間追求してきても、その因果関係(EBPMではロジックモデルという)を立証する段階までまだ至っていないと述懐されています。
エビデンスを一つ立証するだけでも、時間と労力をかける必要があります。
しかし現実の政策立案の状況をみると、十分なエビデンスが揃うまで待つというわけにもゆきません。
●年60万件のエビデンス?
政策に資するエビデンスをいかに集めるかが大きな課題です。
次のような空想をしてみました。
日本国内の大学入学者は毎年約60万人です。その半数は人文・社会科学系の分野で学んでいます(※6)。毎年、この学生たちが卒業論文を作成して提出している(しかもほぼ全員が合格)ので、毎年30万件の人文・社会科学系の論文(あるいは調査レポート)が出ているという計算になります。
卒業論文である以上、質については指導教員による一定の保証もあると考えます。
もし、たとえば介護離職のような社会問題に取り組んだ卒業論文がその数%かでもあれば、何らかのエビデンス集(の素材)が生産されていることにならないでしょうか。
卒業論文ですから、厳密な調査レベルには達しないものも多いでしょうが、エビデンスの素材として活用する道はないだろうかと考えます。
毎年、60万人の学生たちによって生み出される知的生産物がそのまま消え失せてしまうのは、いかにももったいない気がします。■
※1 池田心豪「介護離職問題とEBPM」、JILPTリサーチアイ第82回(2024年7月24日) https://www.jil.go.jp/researcheye/bn/082_240724.html
※2 池田心豪「介護離職の構造─育児・介護休業法と両立支援ニーズ」、第4期プロジェクト研究シリーズNo.4、労働政策研究・研修機構、2023年
※3 正式には「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」
※4 星正彦「介護休業制度と育児休業制度の比較表」、経済のプリズム、参議院事務局企画調整室編 (191), pp.36-43、2020年9月
※5 「仕事と生活の両立-育児・介護を中心に」、労働政策研究報告書No.64、2006年5月25日、図9.3.9 https://www.jil.go.jp/institute/reports/2006/documents/064.pdf
※6 「科学技術指標2024」表3-2-1、文部科学省科学技術・学術政策研究所、2024年8月9日 https://nistep.repo.nii.ac.jp/records/2000116