転ばぬ先の杖(その2)

(2026.01.25)
続きです。
前回は労災保険の現状について概要を書きましたが、今回は今後の方向性の議論について要約してみます。
●労災保険制度の見直し論
1月14日に厚生労働省から、労働政策審議会建議「労災保険制度の見直しについて」が公表されました。
https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000073981_00057.html
労働政策審議会の労働条件分科会労災保険部会で議論されてきた労災保険制度の見直しについて、建議として意見をまとめたものです。
これまでも社会の変化にあわせて労災保険制度の見直しが行われてきましたが、最近、顕著になってきた”働き方の多様化”に対応する必要が出てきたということです。
これに先立って2024年12月に学識経験者9名が集まって「労災保険制度の在り方に関する研究会」を立ち上げました。
この研究会では、労災保険制度というものが社会・経済の動きに適合しなくなりつつあるのではないか、新たに講じるべきことや改善することはないか、という問題意識に立っています[1]。
そして約半年間の議論の結果を2025年7月に中間報告書という形でまとめました[2]。
労働条件分科会労災保険部会は公益代表委員(主に大学関係者)、労働者代表委員(主に労働組合の関係者)、使用者代表委員(主に企業の人事関係者)の3グループから構成されています。
上記の中間報告書は大学関係者の意見をまとめたものですが、それを労使双方の関係者といっしょに議論を進めることにしました。
その結果が今回の「見直し」の公表です。
●農林水産業も労災適用へ
これまで農業、林業、水産業では工場のような厳密な労働管理が難しいため、「暫定任意適用事業」とされてきましたが、これらの産業にも労災の適用を積極的に進めることになりました。
いずれの産業も高齢化と人手不足が深刻で、多くの人に安心して働いてもらえるように労災制度を整備しておく必要が生じているためです。
以前、「農業はブラックか」(2024.10.04)に書いたように、農林水産業ではけっこう事故が多く発生しているという現実もあります。
労災保険部会での議論でも農業、林業、水産業の代表者からは労災適用に基本的に賛同されています。
この動きによって農林水産業の”大規模化”、”企業化”への傾向が強まると予想されます。



●一人親方、フリーランスへの対応
建設業のいわゆる”一人親方”は事業主であり、また労働者です。このような働き方に対応して「特別加入」という制度がすでにあり、そこの団体(特別加入団体とよぶ)に個人で加入して労災適用の手続きを行えるようになっています。
建設分野ではある程度、普及が進み始めているようです。
しかしあくまでも民間サービスであるため、不安定さが残ります。
また最近ではフリーランスとして働く人が増え、特に”ギグワーク”とよばれる短時間、多種労働という形も目立ってきました。
そして建設業とはまた異なる、新しい労働災害のかたちも見え始めました[3]。
現実にギグワーク中に交通事故に遭うという事例も出ているそうです。
多様化、マイクロ化してきた労働形態に対して、労災制度がまだきめ細かく対応できていない実情があります。
このような新しい働き方に対応した労災サービスを健全かつ安定的に運営していく必要があります。


●家事使用人という職種
いわゆる家政婦とか家事代行で、家庭と個人契約を結ぶ人を指します。この場合、労働基準法の適用外であるため、労災保険も適用されません。現実には15%もの使用人がケガや病気になっているとの調査結果もあります。
高齢化や共稼ぎが増えるとともに、このような職種の人も増加することが予想されます。
家事使用人に労働基準法が適用されるならば、労災適用を考えておく必要があるということです。

●夫と妻との支給要件の差異
労災の遺族(補償)等年金支給において、夫と妻とでは違いがあります。
妻は夫が労働災害で亡くなった際、何の条件もなく年金を受給できます。
しかし夫は55歳以上又は一定の障害がある状態でないと受給できません。
これが決められた当時は、夫が生活費の大部分を稼いでいたという標準モデルがあったためで、妻の生活を救済する目的がありました。
いまどきこのような差がまだ残っているというのは驚きです。
実現のしかたについては細部に議論が残ったようですが、支給要件に差異をなくすという基本方針は固まりました。

●消滅時効の延長
労災保険は他の社会保険と異なり、業務起因性を明らかにする必要があります。そのため、外形的な事実だけでは給付を受けられるかどうかの予測が容易にはできない点が特殊です。たとえば内臓疾患や精神疾患などは発現が遅れることもあります。
そのような疾病については消滅時効を2年から5年に延長する方向で検討することにしました。

●事業主への情報提供
現在、労災適用となった労働者には支給決定金額、算定基礎、減額理由、支給(不支給)決定の有無等の情報が通知されます。
しかしこれまで当の事業主には通知されません。
事業主は労災保険の保険料を全額支出している立場であり、また同様の労働災害が再発しないよう努力しなければならない。そのため、労災保険給付の支給決定(不支給決定)の情報を共有することが必要である(注)との意見が出ています。
逆に被災した労働者側は事業主側から不当な扱いを受けたり、事実を隠蔽される恐れがあります。なにより労災の発生が明らかになると事業主の保険料負担が増える可能性があるためです。
(注)「同一災害に対する給付種別ごとの初回の支給決定等に限り、労働保険の年度更新手続を電子申請で行っている事業主に対して情報提供することが適当である。」

●議論のあり方
労災保険部会の最新議事録[4][5]からは、公益代表、労働者代表、使用者代表がそれぞれの立場に立って、具体的かつ論理的に意見を述べようと努めていることが読み取れます。
労働者、事業主、国のそれぞれ異なるベクトルのバランスの上に労災保険という制度が成り立っていることが、部会議論の緊張感につながっているのだろうと思います。
たとえば上記の「消滅時効の延長」の問題に対して、労使が次のような発言をしています[4]。
労働者側委員:
”・・・発症後の迅速な保険給付請求が困難な場合であると考えられる疾病に限って5年に延長することは、理解できません。一般原則である民法の消滅時効は5年であり、それよりも労災保険給付の消滅時効を短く設定する合理的理由はありませんし、疾病の種類で時効期間に差を付けるものでもないと考えております。”
使用者側委員:
”しかしながら、2年を超える請求件数は、絶対数としては少なく、このデータだけをもって・・・消滅時効期間を延長すべきとの結論を導くべきではないと考えます。・・・第120回の当部会の資料では、請求人の制度の不知・誤解、請求人が手続を失念していた、事業主の手続漏れ、・・・といった理由が挙げられています。これらの理由を踏まえると、・・・現行制度の周知広報に注力することが先決だと考えます。”
いずれの意見も根拠をきちんと示した上で主張していますので、どちらも正当に感じられます。
このような議論が積み重なって労災制度の見直しが進んでいることに、(すべてではないにせよ、国会での低レベルな質疑応答に失望している)国民の一人として少し安堵しています。■

[1] 第1回労災保険制度の在り方に関する研究会(2024年12月24日)資料3 議論の視点 https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/001361588.pdf
[2] 厚生労働省「「労災保険制度の在り方に関する研究会」の中間報告書を公表します」(2025年7月30日) https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_60205.html
[3] 中央労働災害防止協会「フリーランスの業務災害防止」 https://www.mhlw.go.jp/content/001499691.pdf
[4] 第124回労働政策審議会労働条件分科会労災保険部会議事録(2025年11月20日) https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_68864.html
[5] 第126回【参考資料1】第119回~第125回労災保険部会における委員の主なご意見 https://www.mhlw.go.jp/content/11601000/001614720.pdf
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